第52回「越中・井波―わが先祖の地(五)」

 引き続き池波の随筆「越中・井波」の原文と備考をお読み頂きたい。

 [原文]午後は町内の大宝寺だいほうじの大法要で、ちょうど、秋葉あきばの火渡り行事があり、獅子舞も出るという。雨は、まだまなかった。ほん どおりの造り酒屋や、婦人の木彫師の家を見せてもらったり、裏通りの古びた町筋を歩いたりすると、何だか本当に、井波が自分の故郷のようにおもえてきた。いや、故郷といってもよいわけなのだ。

 [備考]池波が昭和44年に書いた鬼平犯科帳を読むと、火付けを取り締まる役目の平蔵は、父の墓参で上洛した際に、鎮火ちんかの神をまつ愛宕あたご神社に参詣する。しかし江戸へ帰る時は、今の静岡県春野町にある、鎮火と防火の神を祀る秋葉あきば神社と秋葉寺しゅうようじに、負傷をしていたので、参拝できなかった(「凶剣」、「駿州すんしゅう宇津うつの峠」文春文庫3巻)。それから12年後、池波は井波をおとずれたが、偶然、秋葉信仰に関係する鎮火・防火の古い寺があることを知り、興味を持ち、これから訪ねるのであろう。

 次に八乙女山麓の瑞泉寺に向う本通りは昭和11年に舗装された、幅11㍍の長いアスファルトの道で、両側には昔からの店舗がのきつらねる。池波はその内の1軒、八乙女の良質の湧水を原料として、宝暦の頃には9軒もあった酒造業の伝統を守る老舗しにせ、そしてもう1軒、当時少なかった女性木彫師の工房を訪ね、歓待を受けた。その後裏通りの人通りもない、古びた町筋を歩いてゆくと、突如、井波が自分の故郷に違いないという感情が心の中に広がっていくのであった。

 [原文]むかし、長谷川しんが私に、「君が書くものを読むと、代々、東京にいた人が書いたものというよりも、北国と九州をまぜ合わせたような感じを受けるね」そういわれたことがある。いまさらに、この恩師の言葉が胸に浮んできた。

 [備考]池波は昭和23年に作家・長谷川伸に師事し、38年に師が亡くなるまでの15年間、優しくも厳しい指導を受けた。上の言葉は、九州についてはよく分らないが、池波が56年に越中の先祖の地・井波を初めて訪ね、それを作品に反映させていくことを、あらかじめ見越した内容となっている。

 次に長谷川は明治17年、横浜に生まれ、先祖も越中の人ではないが、昭和6年、越中・八尾やつお生まれのおつたを女主人公にした、人情豊かな戯曲「一本刀土俵入り」を発表した人である。

 物語は、取手とりで 宿じゅく安孫子屋あびこや酌婦しゃくふ・お蔦が、ふんどしかつぎの兵衛へいにお金を恵んでやる、それから10年後、いかさま博打ばくちうちの辰三郎の女房になったお蔦のもとへ夫が博徒に追われてくる、そこへ今はやくざとなった駒形茂兵衛が現われ、親子3人にお金を与え、逃がしてやるという内容である。

 実をいうと、長谷川は8歳の時、実家の事業が倒産したので、小学校を中退して働くが、北品川本宿ほんじゅくにあった仕出し屋・台屋だいやの出前持ちをしていた時、沢岡楼の遊女・おたか・・・さんが同情して、いつも助けてくれたという。このおたか・・・さんがお蔦のモデルで、茂兵衛が最終場面でお蔦にいう、「棒切れを振りまわしてする茂兵衛の、これが、10年前に、くしかんざし巾着きんちゃくぐるみ、意見をもらったねえさんに、せめて、見て貰う駒形の、しがねぇ姿の、横綱の土俵入りでござんす」というセリフには、長谷川のおたか・・・さんへの変らぬ感謝の思いが込められている。

 最後に長谷川は八尾の川崎順治氏が昭和4年に開始した越中おわらの気品の高い歌づくりに協力し、15年に「富山出て四里より 三味線うたが 花はさくさく オワラ 風の盆」という歌を送り、風の盆にも足しげく通っている。

 [原文]やがて獅子舞がはじまる。小雨がけむる道筋で、井波木彫の名物・獅子頭が荒れ狂う。渦巻模様の胴体に4人の若者が入って獅子をあやつる。頬紅ほほべにをつけ、白鉢巻に赤の胴着、たっつけ袴の少年たちが木刀、棒、長刀なぎなた、日の丸の扇を手に獅子と闘い、獅子と舞う。(この年齢としになって、故郷ができようとは……)獅子舞の囃子はやしの音が、白昼夢はくちゅうむの中できこえているようなおもいがした。

 [備考]瑞泉寺の後ろの八乙女山は、昔から山伏が修業をする山であった。そのうち真言宗の山伏が瑞泉寺の今の敷地に居住していたが、江戸時代の始め、復興中の瑞泉寺の敷地拡張に協力し、住居を今の東町に移転し、大宝という寺を建てる。この寺は明治末年になくなったが、昭和26年に復活し、大宝という寺となった。

 次に最初の原文に出た火渡りの行事とは、山伏が炭火の上を渡り歩く火生三昧耶法かしょうざんまいやほうといい、火によって世の中のけがれや罪を焼き尽し、不動明王と一体化するぎょうである。しかし上の原文で火渡りに言及がないので、昔役場にいて池波を案内された大和やまと秀夫氏に、先般お会いし、お尋ねしてみた。すると氏は、20枚程の写真から1枚を出され、中央が火渡りを見る先生です、そして端の方に一寸写っているのが私です、これだけが先生とご一緒の写真なので、一番大切にしていますといわれたのであった。

 次に井波の獅子舞は現在3頭あるが、山下の獅子舞は天保4年(1833)に井波八幡宮の四角神輿みこしができ、巡行された時から始められた。続いて東町の獅子舞が明治28年、日清戦争の勝利を記念して行われ、下新町の獅子舞が昭和26年の井波八幡宮の春季祭から行われた。池波の見たのは東町の獅子舞であったが、どの様に感じられたのであろうか。それが、(この年になって、故郷ができようとは……)、囃子はやしの音が白昼夢の中できこえる、で見事に表現されていると思う。

 最後に木刀、棒等で獅子と闘い、獅子と舞った6名の少年達と池波が仲良く並んだ記念写真を見せてもらった。大和氏は何もいわれなかったが、これのシャッターを押された時、どんなに嬉しく思われたことか、想像するにかたくない。(続く)